N-moca DEEP

Everything should be okay because YOU ARE ALIVE.

孤独が私にもたらしたもの

桜田淳子さんが統一教会の合同結婚式に出てワイドショーが賑わっていたの、覚えてる。たぶん私がカルト宗教を意識したのはあの頃だったのかもしれない。その後もオウム真理教の事件があったり、白装束のパナウェーブ研究所が話題になったり、新興宗教の問題は度々登場してきた。

私は陰謀論にも興味があるほうで、たとえばリチャード・コシミズなんて人もいたな、、最初は(裏世界ってこわいな)と思いながら聞いていたけど、だんだんと信用できる人なのか怪しくなってきて興味を失った。

自分が事実と信じていることに対して、その道に詳しそうな人に「そんなものはこれこれこうだから信じるほうがおかしい」みたいなことを言われたら、一瞬ひるんで(あ、自分まちがってたのかな)と思うのってかなり普通の反応だと思う。そんなにいろんなことに詳しいってことのほうが珍しいし、いろいろと娯楽も用意されている世の中で、知的に攻撃されたら脆いのが一般人だ。

そのことを実感したのが、「北極の氷が溶けたら水が溢れるか」問題だ。アル・ゴアで環境問題に関心を持っていた時代のこと、ある人が「コップの中の氷が溶けても水はコップから溢れ出ない、なぜなら体積は変わらないから(だったかな)。それと同じで北極の氷が溶けても水が溢れて陸地が水没するなんてことはないのだ、と偉い人が言ってた」とのたまった。それについては私は詳しく調べることなくいまだに正しいかどうかの答えを導き出せていない。実際水没するかどうかを論点として感じなかったからだと思う。

そのことよりも、その信じていいのかよくわからない情報を、その道に詳しそうな偉い人が言ってたからと言って鵜呑みにしていいのか、ということが引っかかった。それ以来、専門家を名乗る人が言ってるからといって常に鵜呑みにしていいわけではない、というリテラシーが身についたと思う。

おかげで基本的な態度が懐疑的になり、人付き合いの悪さに拍車がかかっていまやいつでも連絡できる友人が一人もいない。学生時代からの知り合いがいないわけではないけど、私と連絡を取りたいと思っている人がいるとも思えない。たぶん扱いづらい人だったな、くらいの印象に留まっているのではないかと思うし、こちらとしても会ったところで相手に喜んでもらえる気がしないので連絡したいとも思わない。

私もこのままずっと連絡を取り合える人が一人もいないままでいいと思っているわけではない。これは私にとって人生最大のテーマであり、超えるべき壁だと思うから、どうすればいいかという悩みは常に心の片隅にある。とは言え闇雲に声をかけたところで人間関係というのは築かれるものではない、ということも十分に経験してきた。

人とのつながりは縁であり、それは時が来るのを待つとして、その間に私にできることは私の好奇心を満たすことだ。それが、「人生とは」「宗教とは」「魂とは」について知ること。それを今、自分なりに本を読んだりしてやっている。

人によってはもしかしたら、自分がお人形になったとしても見かけ幸せだったらそのほうがいい、いかにも苦労してるとかみすぼらしいとかのほうが耐えられない、という人もいるかもしれない。そういう人にとっては自分を空っぽにして周囲に合わせておくのがいいと思う。だからたとえば上からの命令は絶対に聞くし、上のいいように教育(洗脳)されて、その代わり物質的には豊かな生活を送れるだろう。

でも残念ながら私はそうするには我が強すぎる。上が間違っているとわかっているのにそのまま従うなんて絶対嫌だし、就活の黒スーツなんてまっぴらごめんだし、自分が快適じゃないことを受け入れるなんて耐えられない。その結果身なりがみすぼらしかったり、持ち物が貧相だったり、友人がいなかったとしても、自分自身が今満足している、という状態のほうが、私にとっては絶対に譲れないことなのだ。

今は勉強中修行中の身だと思っている。勉強しながら方向性は模索しているし、時が来ればきっと仲間はできると信じている。今、自分があやふやなままで自分を悪い方向に導く仲間なんて、私には必要ない。そう言えるだけの自信を持つための、ここ数年の孤独期間だったと思う。

今はまだ何にも次の進展がなくて、世に打って出られるものも、こうしてブログを書いても、説得力もない。だけど今はプロセスにあるだけだと思っているし、絶対にこのままでは終わらないと信じている。

こう見えて結構野心家なのだ、私は。めんどくさがりで回避性傾向強めだけどな。それ自体がプロセスだったのだ、今にして思えば。

[Posted at 10:40]