考えるブログ by N-moca

Everything should gonna be okay because YOU ARE ALIVE.

すべては波動が決めている

naoko-y-life.hatenablog.com

昨日この記事を書いた時、対処法は「無視」一択だと書いたけど、それだと不十分だということに気付いた。

これを読んだ人の中には、妖怪と言われて不気味がって、変な霊能者にお祓いしてくれと頼んでトラブルになる、みたいな人もいるかもしれない。

そもそもなんで妖怪がそこにいるのか、それを自分が感知しているのかっていう話になって、より確信を持つためには全然研究が足りないんだけど、少なくとも言えることがいくつかある。


1.霊現象は恐ろしいものだという認識を改める

2.すべては自分の波動が起因になっている

3.現象を解決するために他人を頼る前にまず自分にできることをすること


3は変な霊能者に引っかからないためにぜひ必要なことで、それがすべてとも言える。ここを怠らないでできる人は「無視する」ということも楽にできるようになっていく。


前にこういったことをツイッターで書いていた時、「よい霊能者を知ってるなら教えて欲しい、前に変な霊能者に引っかかってひどい目にあったので」とリプライしてきた人がいた。まずその言動に、この人が霊能者に頼らないといけない事情が見て取れる。自分を被害者にして、できる人がそれを救ってくれて当然だと考えている。

そうじゃないんだよね。。ポイントがズレてる。

仮によい霊能者があなたの霊障を取り除いてくれたとしても、あなたがそういった現象を引き起こしている原因を改善するつもりがないならまた同じことの繰り返しになるだけだ。そして他人に頼る度に、正当かどうかわからない金額を支払うことになる。


そこのところを伝えていきたいんだけど、どうすればいいのか。。それが私の課題。

[9:40]

丹田とチャクラのこと

昨年の終わり頃から「道教学んだらよろしいんちゃう」という声が聞こえていた(というのは比喩で、そのように天から呼びかけられているような気がしてならない、の意)ところ、先日あるきっかけがあっていよいよ学ぶことにした。と言ってもちょろっと入門書を読む程度のことである。

なぜだか同時に「チャクラ」についても学び直したほうがいいような気がして、そのためにヒンドゥー教の入門書も読むことにした。岩波新書の10講シリーズ、まったくありがたい。

www.iwanami.co.jp

並行して読んでいたんだけどまずは道教をサクッと終わらせることにした。今日は第3講、中国古代の心身の捉え方についての話。最後の方で、丹田の話が出てきた。

丹田とは、不老不死をもたらす「丹」を生み育てる場所のことで、身中に3つの丹田がある。臍下2寸4分を「下丹田」、「心下絳宮金闕」を「中丹田」、両眉の間から3寸「却行」したところを「上丹田」という。

と読んで、これはチャクラでは?と思い検索したらやはりその通りのようだ。

興味深いのは、下から第2、第4、第6のチャクラであるっていうこと。奇数を飛ばしてる。

そして気になるのは、この思想はヒンドゥー教やインド哲学とのなんらかの接触があって生まれているのか、インドと中国、それぞれに独自に生まれているのかっていうところ。きっと既にそういう研究ってされていると思うけど、サクッと検索しただけではよくわからなかった。

もしどちらかから輸入された思想なんだったらそれはそれでじつにありそうな話だけど、それぞれ独自に生まれているのだったらなおのことチャクラや丹田、ツボとか経絡とか、そういう目に見えない領域の、身体とエネルギーをつなぐスポットとして、古代から着目されていた、ということになる。


精神世界について深く探究しよう、と決めた時、最初にかかった呼び声は(冒頭のやつ)、「チャクラの勉強しはったらよろしんちゃう」だった。「チャクラ」という単語が私にくどいほど訴えかけてきていた。それで本を何冊も買って読んではみるけど全然進まない。なんでってやっぱり結局、言っちゃうけど「おもしろくない」からだと思う。

そして見るべきところじゃないところに注目している感じがすごくする。そういう部品的なところに着目するより、今目の前にあるもの、人、自分の感情、周囲の状況に真摯に向き合い、親切に対応することが先じゃないのか、人生はテクニックじゃないだろ(愛だろ、愛)、という思いが湧いてきてしょうがなかった。

それは占星術の勉強をしているときも同じだった。最初は面白いんだけど、続けるほどに焦点を当てるべきところじゃないとこばかり見ている感じがしていた。

でもどちらもきっと私の基盤を成すものになるために出会い、学ぶ気になったのだと思う。それらはお金を運んできてくれるほど成長しないかもしれないけど、「やっぱキーポイントやん、どっちも」という感じがひしひしとしている。

[14:35]

仕事のこと【2023年始所感】

2023年が始まった。このブログもずいぶん放置してしまっているけど、考えることは日々ある。ただ、なかなか文章化するには至っていない。

まずはやっぱり仕事のこと。仕事って何か、何のためにするのか、何をするのか、なぜそれをするのか。

大学卒業とともに実家に戻り、家業を手伝ってきてなんとなくで今まで来た。親元で働くという環境を卒業したいと何度も考えたし、それがピークに達したのが2020年末だった。12月の初めに、これはもうやっぱりどうしたって卒業しないといけないタイミングだ、と判断する出来事があり、それで会社員という立場は卒業できたけれど、親の仕事を進める上であまりにも私の存在が必要不可欠になってしまっていて、結局仕事の内容自体は大して変わっていない。

それでも私自身は不満があった部分を解消できたりして満足感は大きいけれど、親の満足感という点で言えばもしかして人として、社会の一員として正しくないことをしているのかもしれない、という罪悪感に似たものもある。これは親が仕事をやめるときまで続くだろうと思うし、その罪悪感は本来必要ないものだとも考えている。

それと同時に、親も高齢で仕事も減りそうで、親の仕事に頼ってばかりはいられない、という現実も待っている。じゃあ何をするのか、と考え始めると、冒頭の数々の問いかけがぐるぐる始まって疲れるだけで答えが見つからないままでいる。

そもそも自給自足で生涯を終えられるなら別に「仕事」なんて考える必要はない。けれどもなかなかそうもいかない。生活しているとどうしたってゴミは出るし、ゴミ処理のサービスを受けるために自治体に世話代として税金を払う必要もあるし、病院にかかることもないとは限らない、となると国民皆保険には従っておくべきだし、老後体が動かなくなった時に多少なりとも月々の支援をしてもらうために年金保険もかけておかないといけない。

もちろん、人生を楽しむためにもお金はかかる。良いものを食べたいし飲みたいし、楽しむための道具や自分を着飾る楽しみなど、お金はかけようと思えばいくらでもかけられる。稼ぎが多いに越したことはない。

じゃあ何をするのか。できれば稼ぐことそのものが自分を豊かにするものであってほしい。そこにこだわるから難しくなるのだとは思う。でも何のための人生か、ただ稼ぐこと、そして稼いだお金でほどほどに楽しむこと?その人生は何のためにあったのだろうか?

そんな疑問を抱えつつも時間は止まってくれず、日々の生活のためにお金は必要で、多くの人が不満を抱えながら仕事をしているのだと思う。

45歳になっても今と同じ働き方をしているとしたら、やりたいとかやりたくないとか関係なく何か別のことを始めていたい、さすがに、と思っていた。今、その45歳である。親は75歳。地域でそこそこの信頼もあるので仕事が来るうちは何歳でも続けそうだ。しかし頭の回転、身体の衰えとともに、規模は縮小せざるを得ない。

さて、そこから仕事をもらっている私はどうするか。今年は仕事の転換の正念場かもしれないな。

[9:28]