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「聖書を読んだら哲学がわかった」を読んだ

ツイッターで上馬キリスト教会のツイートが時々バズっているのは知っていた。それもあって、図書館で見つけた時、読み口が軽そうだなと思い、ついでのつもりで借りてみた。その時は神話について知りたくて本を探しに行ったので、キリスト教も聖書も哲学も厳密に言えばテーマからずれていたけど、結果的に今回私が最も借りるべき本だったと思った。タイミングも完璧だった。

私は自己否定感が強かったことから、心理学やスピリチュアル、宗教学、哲学といろいろかじってきて、それらはすべて物質的なことではなく精神的な側面の話であるということから、自分がやっていることを「スピリチュアル」と表現することが多かったけど、この本を読み終えて、むしろ哲学かもしれないな、と思った。

小学生高学年の時に小室哲哉にハマって、ちょうどその頃に哲学のことを知った。「哲哉」の「哲」がついてるところに惹かれてるのか、なんて思ったりもしたけれど、じっさいちらっと本を読んだりしてみても難解で挫折することばかりだった。

たしか昨年のこと、宗教について学ぶにあたり何かわかりやすいよい本はないかと探して、この本を見つけた。

電子書籍を買って読んだけれど、この本もとても勉強になるよい本だった。紙の本で買うべきかもしれないと思いながら保留している。
この時におそらく初めて哲学史について真面目に向き合った(まあ読んだだけなんだけど)と思う。今回のMARO氏の本も、この本で学んだことが下地になっていた感じもある。

ただ、この本を読んで、やはり自分は哲学じゃなくて「Spiritual」なんだ、と思った。でもそれは勘違いで、この本は歴史を紹介するのが目的の本だっただけで、私が哲学からズレているというわけでもなかったのだということが、MARO氏の本でわかった。とくに最後のまとめが今の自分に刺さった。

哲学は一本道で「進歩」する学問ではなく、広大な広場があって「このどこにいてもいいよ」という学問です。(P.241)

哲学とか心理学とか宗教学とかスピリチュアルとか、そこいらへんを自分は志向していることはわかっているのに目的地が見つからないというのがずっと悩みだったけど、これのことだったのかもしれない。哲学という広大な広場の上で、ああでもないこうでもないと一人で散策を続けているだけだったのかも。

なぜ一人なのか、師や友がいたほうが確実に知識は増えるし思索も深まるのに、と自分でも思うけど、今の私にはそれがノイズになる可能性のほうが高く、恐れの原因となっている。だから自信を持って飛び込む輪を決められない。それでも一人で散策していてもやはり時々はなにか他人が発したものを見つけたり、刺激を受けたりする。そうした中で徐々に消化し自分にあった方法で取り込んでゆくやり方のほうが、少なくとも今の私には合っていると思っている。


それからキルケゴールの3つのステージ。
「美的実存」の絶望は、まさにこないだつぶやいた、「消費者や誰かを応援する人のままでいたくない」というやつじゃないか。
「倫理的実存」の絶望は、近年に思索を深めるようになってから最初に考えたことだった。ただしこれは私はスピリチュアルからの知識として得たように思う。「いい人」でいることばかりを意識しすぎて自分をほったらかしにしていないか、ということ。

そして3つめに「宗教的実存」で神やイエスが登場した時、私もやっぱりズッコケた。ただ、私も「神」についてはずっと考え続けている。私は「神」は人格を持った何かではないと考えていて、スピノザの考え(神はこの世のあらゆるところで働いている)に近いのだと思うし、イエスの復活とかもあったとしても不思議はないかもしれない、少なくとも絶対にありえないと可能性を断ち切ってしまうことは諦めと同じ、みたいな考えを持っている。だけど、キリスト教、と言われると、まだ何か腑に落ちないものがある。一神教だし。「神」に人格を認めているらしいところに違和感がある。

他にもいろいろ勉強になることがいっぱいあった。思索が好きだけど着地点を見つけるのが苦手な人、基礎を固めたくて本を求めたら難解だったり偏っていたりして迷子になりやすい人におすすめ。めんたまんた氏のゆるくやわらかなイラストもよかった!

自分としては、もうちょっとキリスト教や聖書も掘り下げないとかなあという感じ。勉強したいことがいっぱいあって大変です。

[Posted at 13:25]