両親と私だけの小さな会社の社員を無理やりやめて、それでも私にしかできない仕事はあるから結局同じとこで仕事をしている。
私がやりたいのは今の仕事みたいなことじゃなく、もっと人生や人間の心に寄り添った分野で、関心があるのも宗教・哲学・心理学・スピリチュアルとかなんかその周辺。父が退職したあとも今の仕事を続ける気は毛頭なく、それならもうやめて自分が何をやっていくのかを見つけたい、と両親にも話したし、日々考えている。
コーチング、みたいなことは私はちょっと合わないなと思っていて、とは言えそれに似たような仕事を考えていた。でも日が経つに連れ、そういうのってやっぱりなんつーか傲慢だなっていう感じが強くなっている。
今日も朝起き抜けにネットサーフィンしていて、新興宗教、マルチ、高齢女性の一人暮らしなどなど社会の重い面をいろいろ見ることになった。
私は人生は魂のレベルアップのためにあるのだと、一応、考えている。そういうことにしている。
魂って一つしかないけどレベルが分かれている。高いところに行くほど酸素が薄くなるみたいなイメージ。その一部分に肉体が与えられることによって、個人という人生が発生する。のだと思っている。
だから魂のレベルが低いうちに経験することと、もうすでにレベルの高い魂が経験すること、それらのレベルは魂のレベル分だけ違う。でも自分が感じる難易度は同じ。それは、自分がギリギリ超えられるかどうか。それが、超えられる困難しかやってこないということだと思っている。
そうだとして、魂のレベル(精神年齢)って雑談とかではネタになるけど、真面目に考慮されるものではない。そういうさまざまな魂レベルが入り混じっている社会で、もしかしたらたいして魂レベルが高くない分際で、人様に向かって「導く」なんて、傲慢なのでは?
私にできることはやっぱり目の前にあることをただひたすらコツコツ積み上げていくしかないって思う。だとしたら、私にできること、私が目指すべき場所っていったいどこなのだろうか。
迷っている状態って苦しいしあまり意味のない時間だったりするので、役立つとは思えないながらも今はひたすらイタリア語と英語に時間を費やしている。ネットをのぞけば自分よりできる人はいくらでもいて、これが何になるんだろうと思わずにはいられないけど、何にもしないのもつらいので、いつか役立つ時が来るのかもしれないと思いながらやっている。
私は人生は、親がその子の肉体を形作った瞬間に始まるわけではなく、その魂が自分の意志あるいは成り行きで人生を始めるのだと決めたから肉体が与えられるのだと思っているけど、人生の意味は人それぞれなのかもしれないし、もしかしたらたいして意味はない場合もあるのかもしれない。
人生は暇つぶし、というアイデアは、ある時には最良だけど、ある時にはもったいないとも思う。
人生とは、、仕事とは、、