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ソフトカルト宗教としてのスピリチュアル

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私は本屋が好きで、精神世界を探究したいとなれば当然精神世界のコーナーに行くことになる。そこには読んでみたい本も紛れてはいるんだけど、願望実現系の本とか「○○すればいい」、「○○代で絶対やっておくべきこと」、宇宙人系、新興宗教とかの本が並んでいて、たしかにそのコーナーで探したいんだけどなにかそこに居るのが恥ずかしいことのような、決して「気持ちがいい」とは言えない波動を感じていた。

それは精神世界に足を踏み入れていない人なら共感してもらえる感覚だとは思っていたけど、いったい何なのかが説明できずにいた。でも昨日、ライオンズゲートに関してツイートした時に「ソフトカルト宗教」という言葉を思いついて、この言葉に集約されているんじゃないかと思った。

折しもカルト宗教が話題になっているおかげで何が問題かが浮き彫りになっている。ニュースとしては政治との癒着が問題なわけだけど、そうじゃなくなぜカルトがダメかというと、洗脳して金品を貢がないとダメだと信じさせる状態にした上で貢がせる、というより搾り取るという、わかりやすく非人道的なところが問題なわけだ。

それに比べるとスピリチュアルは、垂れ流しになっている情報にたまたま触れるきっかけがあって、自分の依存心や救われたい気持ちから近づいていって、「●●になりたいのなら○○すればいいだけなのにあなたはしないからだ」とか言われるとそれを実践しない自分が悪いように感じてやるようになり、そのうちバイオリズムの良い時期かなんかにうまく行きだすとその発信者の言うことが正しかったからだと信じるようになって、その発信者を崇拝するようになる。そしてセミナーに通い詰めたり、リトリートとか合宿的なものに何十万とか、時には何百万とか注ぎ込んだりする。

自主的と言えば自主的で、わかりやすいカルト宗教のような悪どさはないけど、言うなれば誘惑しておいて「そっちから近づいてきたんでしょ?」と言い放つ小悪魔女子みたいな、信じた者が無自覚に自分から発信者に染まりに行っているところがたちが悪い。それは「ソフトカルト宗教」という言葉がぴったりなんじゃないか。

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私自身なぜ本屋のスピリチュアルコーナーに通っていたかというと、人生が苦しいものであり自分を変えたいという思いや手っ取り早く救われたいという思いがあったからだ。だから近づいてしまう人の気持ちはわかる。だけど私は取り込まれてしまわないように距離を取りながらだった。私は依存心が強いと自覚していたけど、それでも取り込まれてしまう人と比較したら十分、自分の足で立ちたい気持ちも強かったようだ。

私が唯一信用している「見える人」が、私がブログでつぶやいた言葉を見たのだろうか、定かではないけれど「本屋のスピリチュアルコーナーの前に漂う空気が気持ち悪い、とか言ってる人は云々」と批判していて悲しくなったことがある。けれども今はっきり思う。やはり気持ち悪いという感覚は間違っていない。そこに漂う気は、「苦しみから発する依存心」と「その依存心を利用したいという出版社の気」それからもしかして本人は救っているつもりかもしれない発信者の「自分は導き手である」という慢心。それらがブレンドされた気が漂っているのだと思う。

本当のスピリチュアルとは、自分の精神性と向き合い、鍛えることだと私は思っている。だから発信者は最初の取っ掛かりを与え少しの間支えるだけの、補助輪的な存在でないとおかしい。しかし実態は教祖のようになっていて、信者のほうも「この人についていけば大丈夫だ」とばかりに寄り添っている。自分軸に見えているものも、根底に教祖への帰依がある。それは本当の自分軸とは呼ばないんじゃないか。

ソフトカルト宗教は他者から囲い込まれるわけではなく、自ら密接していってるだけなので、教団に申し入れをするとかしなくても自分が気付けばいつでも離れることができる。そういうオープンな環境であるがゆえに取り締まりの対象にもなりにくい。近づく者自身が距離感をはかるしかない。本来はそこらへんもよくよく説いて、自分が教祖と頼ってくる者は叱りつけるくらいであってこそ、価値の高い発信者と言えるのではないか。

しかしそうした見方をしているとまたここで難しい問題が生じる。それは、カルトではない宗教、仏教の各宗派とかキリスト教とかはどうなんだ、という話だ。。

果たして私のスピリチュアルに対する問題意識はどこを着地点としているのか自分でもまだよくわからない。それだけに堂々と人を集めて論じるとは程遠い現状なのである。こうしてひっそりとつぶやくのが精一杯である。

[Posted at 7:25]