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「生娘をシャブ漬け戦略」に見たイジメの本質

「生娘をシャブ漬け戦略」ニュース、私には「クリスロックをビンタ事件」と似通ったものに見える。

ビンタ事件、日本ではジェイダ・スミスの脱毛症によるヘアスタイルをネタにしていることの非難がおもな論点になってると思うし、一方アメリカでは暴力が論点になっているけど、クリスロックがブラックジョークを放った瞬間は、それはジョークとして受け止められ会場は笑っていたわけで。

生娘をシャブ漬け戦略事件でも、SNSで報告した本人以外は誰も止めるでもなくみんな笑っていたと報道され、それはブラックジョークとして受け止められたわけだ。


吉野家「生娘をシャブ漬け戦略」抗議した受講生が詳細語る。「教室で笑い起きた」 | Business Insider Japan

時代が時代なら抗議した受講生のほうが空気を読まない気難しい奴とけなされたかもしれないが、そこは時代の変化を感じるところではある。

それはそれとして、要するに人は日本社会であってもアメリカ社会であっても、背景が違うためにウケるネタは違えど、ジョークとして発していると認識することが笑いを呼んでるのであって、本当に面白くて笑っているかどうかとは別に、場を円滑に進めるために「笑う」という行為を提供するのだということ。

それは社会的行動なのであって、酷い発言を笑って流そうとしたからと言って、同じような思想を持っているわけではない。

そこで抗議できるというのは自分の軸をしっかり持っている人であり、多くは自分軸なんて曖昧にしたまま年齢を重ねているので、とりあえずその場を円満にやり過ごせればいいと考えている。

それこそが「いじめ」と言われる状態の本質なんじゃないのか。ダメなものはダメだと主張することで自分が扱いづらい人間と評価されることを恐れている。


書いていて思い出した。先日電車で座っていたときのこと。車内は各ドア付近に数人立ってる程度の混み具合。私は端の席に座っていた。

すると対角の席に座っていた女子学生の足元に、どこからかペットボトルが転がってきて、彼女の足に当たって止まった。

どうするんだろうと見ていたら、なんと彼女は無視して降りてしまった。自分の足に触れているのにである。周囲も気にする素振りもない。

私は驚いて、席を立ちそのペットボトルを拾った。予定通り次の駅で下りて駅員に手渡そうと思ったが、駅員が見当たらず、結局改札まで持って行き、事情を話して手渡した。その後トイレに戻って手を洗ってから改めて改札を出た。

もちろんペットボトルを放置した本人が悪いのは当然だが、もしかして本人は落としたのを気付いていないのかもしれない。中身は透明のソーダ水と思われるものが半分ほど残っていた。ひょっとして危険物の可能性もないではないので駅員に報告すべきだろうと思った。


みんなできるだけ自分は問題に関わりたくないのだ。これはボーダーを超えているだろうな、と予想される出来事であっても、そこで「ダメなものはダメだ」と主張できる人は少ない。

にもかかわらず、のちのち話題になってからああだこうだ言っている。

人間ってそういうものだ。それは人生を生き抜く上で培ってきたスキルなのだ。けれども今そのスキルの善し悪しを問われているのだと思う。

私はもともと空気を読まない質なので、自ら場から身を引いてきて、今は周囲にいるのは親だけという状態だ。どうすれば円滑に人間関係を保てるのかわからない。自分にとってNGな言動をする人や、場から見て私の言動がNGだろうと思しき場から距離を置いてきた結果がこれである。

そう完璧に優れている人なんていないし、いたらそれはそれで窮屈だ。自分から見てこれはNGだと思う言動を取る相手とどのように付き合っていくのが相応しいのか。

私は今は不遇なだけで死ぬまでにはきっと分かり合える仲間は見つかり居場所ができるものと信じているけど、そのためには自分から見てNGだという言動をどう扱っていくかという問題を超えないといけない。

先日の河瀨監督じゃないけれど、ブラックジョークに対して誰も止めるでもなく笑っていたことを悪として扱うのは簡単だ。後からなら何とでも言えるのだ。でもその場にあって自分がどういう行動に出るか。これは一人一人が向き合うべき問題なのだと思う。

最後になりましたが、講義の発言について運営に抗議したという行為を尊敬します。私ならドン引きして笑わなかったとしてもえらいとこに来た、もう二度と関わらないようにしようと隠れてしまうことを選んでいただろうと思う。そこで黙っていてはいけない、しかも講義中ではなく運営に抗議したという選択も含め、勉強になった。そういう人間でありたい。