N-moca DEEP

Everything should be okay because YOU ARE ALIVE.

評論する側とされる側

海外の流れを受けてなのか日本独自の文化なのか、芸術芸能分野には、表現する側だけではなくそれを評論することで飯を食ってる人たちがいる。

その人たちの審美眼がめちゃくちゃすごいのか、造詣が深いということで名を馳せ、あの人が言うから間違いないのだろう、というように、業界で一目置かれている評論家の言葉は、表現された物の売り上げや表現者の世間的な人気を左右する力まで持っている。

私自身は、この現象において憎むべきは、風に流される世間の構成民一人一人だと思っている。かつて自分もそんなふうに雑誌や何かでえらい人の言葉を読み、なるほどこの人たちはそこがすごいのか(ダメなのか)この作品の聴くべきはそこなのかなどと、しっかり作品や表現者本人以外の扇ぐ風に乗っていたから、その経験に対する過去の自分への嫌悪感とも言えそうではある。

時を経ていろいろと考えをこねくり回し、できるだけ俯瞰して眺めた結果、齢46の女、評論家という存在が嫌いになった。その存在価値はおそらく世間が求めるものであり、逆張りと呼ばれるようなものかもしれない。

しかしどんなへぼい表現者だろうとも、自分が何かを為すのではなく他人の何かを評価する側より100倍くらいは魂が美しい。

気付いたら評論家と呼ばれていたという方もおられれば、評論家になることを目指して研鑽を積んできた方もおられるのかもしれない。その個人の努力の美しさは別として、地位を得た評論家は「扇動者」とも言え、私はそこにも嫌悪感を感じるのだろう。

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父を通しての仕事だけでは父が死んだら路頭に迷いかねない、そのためにも「消費者」ではなく「提供者」にならないといけない。「買う側」ではなく「売る側」になりたい。と、3年半ほど前から思ってきたそれは、つまり「評価する側」と「評価される側」のことだった。

他人を評価しているその尺度で自分を評価したときに十分高く評価できるだけの技量がある人だけが、評価するに価するのだと思う。魂的にはね。

評論家にだけはなってはいけない。ずっと若かった頃に聞いた言葉のような気もする。その意味がわかるところに到達できた。

さて、それではどのステージに立つのか?それが問題だ(泣)

[2024-05-19 7:29]にLIGHTブログにアップしていたものを移植しました

[2024-05-19 8:24]