好きな人が多ければ多いほど、その人たちが死ぬたび悲嘆に暮れることになる。そういう覚悟はしておいてもいいかもしれない。
もちろん同じ死ぬでも死に方や時期など、そしてどれほどその内情を知れるかによって自分が受け止める安定感も変わってくる。
場合によっては内情を知っているからこそむしろ受け止めるのが難しい、ということもあるかもしれない。そう考えると、何があったのかわからないけれどとにかくその人が死んだということが公に発表された、ならそれを受け止めるほかない、という立場であるほうが、気が楽なのかもしれない。
私も45年生きてきているので、親族も何人か見送ってきたし、最愛の愛犬も見送った。
こう言っちゃなんだけど、私にとって最も辛い別れになるとわかっていたのが愛犬で、だからこそ彼女が年老いてきて介添えが必要になり始めた頃からもう彼女がこの世を去ってしまうことについては常々考えていた。だから死んだ時は悲しかったし、今だって思い返せば涙も流れるけど、ペットロスには陥らずに済んだ。同時進行で精神世界の追究を進めていたのも意味があったのかもしれない。
こう言っちゃなんだけど、両親が他界する時はもちろん悲しみは大きいだろうけどそれ以上に生活が激変することへの対応のほうが大きいような気がする。ここ数年、両親への感謝の気持ちは常々確認してきているし、言うべきタイミングでの感謝は即座に伝えるようにはしているので、後悔するようなことはたぶんないだろうと思う。
どうしようもないのはやっぱり愛するバンドのメンバーの他界で、特に思い入れの深いメンバーが死ぬ時は、それはそれは辛い気持ちを抱えることになるだろうと思う。もうこの世にいないという事実。立場上、伝えたいことをすべて伝えておくというのも難しい、一方的な愛情。だから訃報が流されればただただそれを受け入れるしかない。
けれど今の私なら、日常に支障をきたすようなことはないはずだ。人はいつか必ず死ぬと知っているし。いつ死ぬかわからないことも知っている。もしもファンに向けてお別れ会のような場を設けてもらえるなら参加し、できるだけ後悔のないように今やれることはやっておく。会いに行ける時に会いに行っておき、買いたい物があるなら買っておく。どうしても伝えたいことは手紙なりメールなり伝えておく。だけど相手を困らせるのも失礼なことだから、頻度やTPOはわきまえて。
昨日流された訃報のあと、ツイッターでお悔やみを述べている人がたくさんいたけど、まだ心の整理がついていないのにそんなに急いで「ご冥福をお祈りします」って言わなくていいんじゃないかな、と今回初めて思った。親族だって七日の法要のうちに心の整理をつけ、四十九日で一旦手放し、そうやって少しずつ受け入れていくのだし。故人もきっとまだ驚いている段階じゃないのかな。何があったのかわからないけれど。。
そんなことを思いつつ、公式からの次の発表をそわそわしながら待っている。
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ところで私にほとんど友だちと呼べる人がいなくなったことを自覚した頃から考えていることだけど、今の状況がわからないということと、その人が死んだということは、だいたい同じだな、と思う。もしも再会するようなことがあればその時に生き返るのであって、それまでは死んだも同然だ。
求められれば応えたい。そうでなければ多くの過去の知人の中で私は死んだ人で、同時に私の中で死んだ人々。まったく、我ながらややこしい性格に生まれてきたものだと思う。
[2023-02-16 16:52]